1905年

1月3日、吉田永三郎、菊の四女として起町(現在の一宮市)に生まれる
明治38年
1921年
16才
淑徳高等女学校を卒業し、上京して洋画家・岡田三郎助に師事
大正10年
1922年
17才
女子美術学校(現在の女子美術大学)2学年に編入、三岸好太郎と出会う
大正11年
1924年
19才
女子美術学校を首席で卒業、9月三岸好太郎と結婚
大正13年
1925年
20才
春陽会第3回展に初出品、初入選。婦人洋画協会結成に参加
大正14年
1932年
27才
参加していた春陽会から離れ、独立美術協会第2回展に出品、入選
昭和7年
1934年
29才
夫・好太郎死去(享年31)
昭和9年
1936年
31才
長谷川春子ら女性画家7人で七彩会を結成
昭和11年
1939年
34才
新制作派協会会員となる
昭和14年
1945年
40才
戦後初の個展開催(銀座・日動画廊)
昭和20年
1947年
42才
女流画家協会の創立に発起人として参加
昭和22年
1948年
43才
洋画家・菅野圭介と別居のかたちをとり再婚
昭和23年
1951年
46才
昭和25年度芸能(現在の芸術)選奨文部大臣賞受賞
昭和26年
1953年
48才
菅野圭介との結婚を解消
昭和28年
1954年
49才
初めて渡仏し、翌年帰国
昭和29年
1957年
52才
軽井沢の山荘で独居生活
昭和32年
1964年
59才
現在の神奈川県大磯に転居
昭和39年
1967年
62才
収集した好太郎の遺作220点を北海道に寄贈
昭和42年
1968年
63才
再び渡仏し、南仏カーニュに住む
昭和43年
1969年
64才
女流美術家による総合展〈潮〉の結成に参加
昭和44年
1974年
69才
ブルゴーニュの小さな農村ヴェロンに移住
昭和49年
1977年
72才
ヒマラヤ美術館(名古屋)が開館、三岸節子作品室が設置される
昭和52年
1983年
78才
北海道立三岸好太郎美術館が寄贈作品を基に開館
昭和58年
1986年
81才
秋の叙勲で勲三等宝冠章を受章
昭和61年
1988年
83才
尾西市(現一宮市)名誉市民に推挙
昭和63年
1989年
84才
帰国、神奈川県大磯に定住
平成元年
1990年
85才
1989年度朝日賞を受賞
平成2年
1991年
86才
三岸節子展<画業65年>開催(米・ワシントン女性芸術美術館)
平成3年
1994年
89才
女性洋画家として初の文化功労者となる
平成6年
1998年
93才
11月3日、尾西市三岸節子記念美術館が生家跡地に開館
平成10年
1999年
94才
4月18日未明、急性循環不全により逝去(享年95)
平成11年
2005年

市町村合併にともない一宮市三岸節子記念美術館に名称変更
平成17年
「自画像」とともに 1925年女流画家協会のメンバーと 1946年南仏 カンヌにて 1954年スペインにて大磯にて


1905年1月3日愛知県中島郡小信中島村(現在の一宮市)に生まれました。「自画像」 1925名古屋の淑徳高等女学校に在籍していた15歳の時、第1次世界恐慌のあおりを受け富裕であった実家が破産してしまいます。この出来事から名誉を挽回したいという強い意志が芽生え始めました。その頃、興味を覚えていた油絵を勉強するために16歳で上京、洋画家の岡田三郎助に師事します。女子美術学校(現在の女子美術大学)の2年に編入し首席で卒業。そして、在学中に出会った若き貧乏画家・三岸好太郎と19歳で結婚します。この時すでに子を宿していましたが、絵に対する意欲は衰えることなく《自画像》など4点を春陽会に初出品、初入選し画壇へのデビューを果たしました。
自由奔放な夫の行動を横目に家庭を守りながら、時間の合間を見つけては制作を続けていました。しかし、絵描きが同じ屋根の下で生活するにはせめぎ合いも多く夫との生活に疲れ、どちらかが死ぬしかないとまで思いつめ始めていた矢先でした。「貝殻旅行」と称して二人で旅した後、東京に戻った節子のもとに、名古屋から好太郎の死の知らせが届きます。まだ31歳の若さでした。「月夜の縞馬」 1936わずか10年ほどの結婚生活で3人の子を残し、画家として生きることについて教えてくれた佳人でした。29歳という若さで未亡人となりましたが、絵筆を折るどころか、画家として生きる道を貫きました。画壇では次第に実力と才能と努力が認められ地位を確立していきます。
「花と魚」 1952フランスから帰国し独特の作風で注目を集めていた洋画家菅野圭介と32歳の時出会い、43歳で別居の形をとった結婚として新たな時代の幕開けのように取り沙汰されました。しかし、画家として注目を集めながら女流画家協会などの設立に加わるなど日々に追われ、家庭の安息を妻に望む夫とのすれ違いから終止符を打ちました。この心の傷を癒すためにも、49歳で初めて憧れの地フランスへと旅立ちます。

フランスで過ごした1年半あまりの間、原始美術の力強さや造形の美しさに感銘を受け帰国後、日本の〈埴輪〉に共通したものを見出し題材として描きました。子供たちも巣立ち、独りになって軽井沢の山荘にこもり制作を始めます。業火に身を焼き尽くそうと浅間山の噴煙に飛び込むような異形の鳥が、乾ききった心のような筆致で表現されています。「火の山にて飛ぶ鳥(軽井沢山荘にて)」 1960その後、ようやく太陽光の降り注ぐ神奈川県の大磯に転居し、〈太陽讃歌〉シリーズとして目の覚めるような原色づかいの作風へと変わっていきました。また、自作と引き換えにしてまでも蒐集した亡き夫・三岸好太郎の作品を北海道の生まれ故郷へ寄贈します。これらの作品を基に現在の北海道立三岸好太郎美術館が設立されました。こうして気持ちの整理をつけ、心機一転、再びフランスへと旅立ちます。

異国の乾いた大地がそうさせたのか、イタリアで見つけた風景から新境地を開くことになります。仏に5年ほど滞在し大陸の風を感じさせる風景画を描く一方で、歴史の古い土地に受け入れられる難しさを感じ、帰国の途に着こうとしていました。その矢先、パリで開いた個展が好評を得ていたことを知り決意を新たに滞在を延ばします。パリから120kmほど離れたブルゴーニュへの入口、ヴェロンに居を移しました。「小さな街(アンダルシア)」 1987また、スペイン・イタリアなどへも足を伸ばし制作意欲を駆り立てられ過ごします。81歳の時、秋の叙勲で勲三等宝冠章を受章し、83歳で生まれ故郷の尾西市(現一宮市)名誉市民となりました。こうして、約20年余りの時を異国で過ごし帰国した時には、すでに84歳を過ぎていました。
60年余の剛直な画業と女性画壇の地位向上に努めた功績から、1989年度朝日賞を受賞します。また、日本人の女性洋画家としては初めてアメリカのワシントン女性芸術美術館で展覧会が開催され、世界にもその名を広めました。「さいたさいたさくらがさいた」 199889歳で女性洋画家として初めての文化功労者となり、各地で展覧会が開催される度、鑑賞者の心に強く深い影響を与えています。さらに、亡くなる直前まで筆を置かず新作を生み出し続けたことは、今日でも人々に生きる勇気をもたらしています。1999(平成11)年4月18日未明、神奈川県大磯で94年の生涯を閉じました。